【諦】
形声。音符は帝。[設文]三上に「審らかにするなり」とあり、「つまびらか」の意味とする。つまびらかという意味は、諟(あきらか、つまびらか)と通用して生まれた意味であろう。仏教語としては諦観(真理を悟ること)のように、タイの音でよむ。国語では「あきらめる」とよみ、進学を諦めるのようにいう。
常用字解[第二版]/白川静
少し前まで、わたしは泣いてばかりいた。
きっかけはささいなことだった。
自分の見た目に対する強烈な劣等感が掘り起こされて、感情をコントロールできなくなっていた。
「わたしなんかと付き合う意味がわからない」
「本当は若くてかわいい子が好きに決まってる」
「元カノを忘れるためにわたしと付き合うことを決めたのかも」
そんな考えが、頭の中に浮かんでは消えまた浮かんでは消えをくり返していた。
こんなことを考える自分の暗さも嫌でたまらなかった。
人は無条件で存在価値がある。
自分の友人や恋人に目を向けてみればよくわかる。
わたしは彼らが何かをもってるからとか、何かができるからという理由があって付き合ってるんじゃない。
みんな唯一無二の尊い存在に感じる。
なのに自分のこととなると他人との比較癖がやめられなかった。
本当は、今この瞬間から、自分のすべてを肯定していいのに。
考えすぎて気が狂いそうになったある日、わたしの中で何かがぷっつり切れた。
「わたしはわたしでしかいられないんだから、もう受け入れたらよくない?」
そう、たったこれだけのことだった。
その時、前にどこかでみた「諦める」という言葉の本来の意味に、うしろ向きな意味は微塵もなかったことを思い出した。
その意味を身体で理解できた気がした。
嘘みたいに清々しかった。
だけど自分の先の人生はまったく諦めていない。
だって未来は予測不能だから。
諦めることを知っていれば、もうこわいものはない。
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